実感のみ

 私が「金の牛」と云ったのは、カトリックの「ゆるしの秘跡」への「表面的なあこがれの気持ち」のことです。

 「秘跡そのもの」を求めているのではなく、「あなたの罪は赦された」と言葉を通して言ってもらいたい、との思いを「金の牛」と云ったのです。

 小説や映画の告解(懺悔)のシーンに、キリスト教の信仰者としてあこがれにも似た思いを持つのですが、それは秘跡としての告解という「本来の意味」ではなく、「応答が欲しい」という「表面的な意味」からです。

 「ほんもの」のことを知りつつも「実感のみ」を求める思いは「金の牛」に他ならないように思います。

 「告解の場面」ではなく「ゆるしの秘跡」をそこに見ることが出来たら、私の信仰も「違ったひろがり」を持つことが出来るだろうなあと感じます。
 Nov12,1997

itsumi
宗教・信仰