沈黙・合掌・無表情

「主よ!」ではなかったです。線香がほとんどなく、一本や半分の線香にライターで火をつけ、静かに合掌しました。神とか仏とか、祈りとかお経とか、頭になかったように思います。ただ静かに、自然に、ご遺体に手を合わせた、そんな記憶が残っています。

 私は多分、無表情だったと思います。棺桶をつくったり、バンのような車で迎えに来られたご遺族の出棺のお手伝いをしたり、髪の毛の中まで土だらけの小さく軽い老人、大学生の大きく重たい体に「向かい合った私」は、ただの生かされた肉の塊に過ぎなかったです。

 神の御前で、生かされている喜びを感謝している姿ではなく、死者の前で無表情に手を合わせる自分。あの時、「生きている」「生かされている」ということが、ただ「死ななかった」というとでしかなかったのかもしれません。喜びも、哀しみもなかったかもしれません。

 今になっても、まだよくわからないんですが、震災の朝の明るくなった空に「海の蒼さ」を想った「私自身」と、避難所で、ご遺体に無表情で向かい合った「私自身」が重ならないんです。

人間が こんなに哀しいのに
 主よ
海があまりに 蒼いのです

だから、遠藤周作の「哀しい」は、悲しみという感情を失った彼方の状態なのかなあ、と考えたりします。だから「主よ!」なのかもしれません。(今だからこそこんなことが云えるのですが・・・。)
 Jan14,1997

itsumi
震災