粋、侘び

偶然の出逢い・素敵な偶然・・・「セレンディップの3人の王子」 (The Three Princes of Serendip)という童話では、王子たちが旅の途中に、もともと探していなかった意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、偶然からの発見するストーリーを、ウォルポールが「セレンディピティ」という概念を思いついたそうですが、それとはまったく別に、九鬼周造が「粋」「イナセ」「侘び」「風流」というのを言っていたのを思い出し、久し振りに九鬼の『 「いき」の構造 』を本棚から取り出しました。
「侘び」は、まさに自然が織り成す「偶然」を愛でる心で、「偶然」の産物である自然で、あるがままの「在り様」を楽しみ、愛で、そのままを受けいることで、西洋的な観点の「日本流 偶然の発見」とも言えるのかなあ~と思います。
調べると九鬼の著作に「偶然性の問題」と、まさに偶然を扱った著作がありました。残念ながら手元になく、神戸市立の図書館に所蔵されておらず、青空文庫でも未だ公開されておらず、「作業中」になっていました。ただ青空文庫には九鬼の「偶然の産んだ駄洒落」という作品が公開されていました。
・・・今年の歳末にその天野君と落合太郎君と私とで寒い晩に四条通の喫茶店へ茶を飲みに行ったことがある。給仕の少女に九鬼は紅茶とビスケットをくれないかといった。ビスケットってクッキーのことですかと少女が尋ねた。九鬼は「クッキーなら貰もらわないでもこっちから上げるよ」といって笑ったが、何かしら胸にグキット感じた。ビスケットという古い言葉がクッキーという新しい言葉に代ってしまっているのを初めて知って、自分の住んでいる古い世界と少女の住んでいる新しい世界との間隔に軽い目まいを感じたのである。これはクキがクッキーでグキットした話である。・・・
(偶然性の問題、九鬼周造、青空文庫より)
興味を持っていろいろ調べると、「偶然性の問題」という作品の中には「偶然は、必然の網の目のすきまから忍び込む。」という有名なフレーズがあるそうです。自然界や人生の中で、すべてを理屈で説明しきれない「すきま」があって、そこに偶然が入り込む余地があり、その「すきま」「狭間」を探求・追求し、まさに「隙間で彷徨う」のが偶然を愉しむ「侘び」であり「粋」であり「風流」なのかなあ~と、思いを巡らせました。
切り口が異なりますが世阿弥の「風姿花伝」では、
五十有余
・・・およそ、その頃、物数をばはや初心に譲りて、やすき所を少なすくなと、色へてせしかども、花はいや増しに見えしなり。
これ、まことに得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。年来稽古以上
(世阿弥、風姿花伝、来稽古条々より)
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
(Lennon-McCartney、Let it be,The Beatles)