旧約の聖絶

 「聖絶」という言葉は、新改訳聖書の訳出の時の造語で、新改訳聖書の捉え方は、「完全に滅ぼして、神に捧げる」というような意味合いで用いた(造り出した)言葉であるそうです。(訳出に参加した牧師から、聞いたことがあります。)

 「聖絶」という言葉の「ものすごさ」は、特に申命記に顕著に表れているように思います。

 忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。
 申命記7:26

 あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。
 申命記13:14-16

 私は、新共同訳聖書で使われている「滅ぼす」や「滅ぼし尽くす」という言葉では云い尽くせないニュアンスを「聖絶」という言葉から感じ取ります。神の為に滅ぼし尽くし、神に捧げる姿です。人間中心の民主主義の真っ只中にある私にとって、まったくの神中心の概念は、遥か彼方の出来事のように感じますが、でも、贖い(十字架)ということと対峙する上で、「聖絶」という言葉で表わされる概念・文脈は、ものすごく重要だと思います。

  「聖戦」という名のもとに、戦争が正当化され、人殺しが正当化されることは、最も恐ろしいことですね。「人の義」と「神の義」を履き違えることこそが「罪」ではないかなあ、と感じます。少なくとも民主主義の体制の中では、聖戦はありえないと思います。(もちろん、死刑と聖絶は、まったくの別物だと思います。)

 保守的な立場から「聖戦」を扱った本として、

 P.C.クレイギ:「聖書と戦争」~旧約聖書における戦争の問題~、すぐ書房

 旧約の時代において、「一人のいのちは、地球よりも重たい」と、「聖絶」や「聖戦」がなかったなら、十字架の贖いはなかったでしょうね。、「聖絶」や「聖戦」はヨシュアにとって、神からの「ミッション」だったと、私は考えています。
 Nov11,1999

itsumi
信仰を巡っての断片