兵庫津散策

 昨日の健康診断の折に、一通りの検査が終わって、速報の検査結果をもとに看護師からの説明があるまで2時間あまりの時間があったので、神戸のルーツである兵庫津(兵庫宿)近辺を散策しました。

 柳原蛭子神社、兵庫津の西の端に位置します。古代の「敏馬の泊(とまり)」から平安時代に和田岬・兵庫の「大輪田泊(おおわだのとまり)」に移り、平清盛が中国との日宋貿易の拠点、瀬戸内海航路の拠点として大規模に改修して、福原宮の玄関口となった経緯があるため、西国街道は兵庫津を寄り道するような経路となって、その西の端が柳原蛭子神社近辺になります。

 兵庫大仏、天台宗の能福寺の境内にあります。日本最初の密教教化霊場と言われ、平清盛所縁の寺で、福原京遷都の折に、平家一門の祈願寺に定められたそうです。明治・大正・そして戦前の昭和時代には、奈良・鎌倉とともに日本の三大大仏と言われていたそうです。

 境内には、平相國廟・・・十三重石塔形式の平清盛供養塔があります。

 能福寺の境内には、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)による寺の由来碑があり、これは日本最初の英文碑と言われています。ジョセフ・ヒコは日本人で初めてアメリカ合衆国の市民権を取得した人物と言われ、播磨国加古郡の阿閇村古宮(今の播磨町)で生まれて、その後、乗っていた漁船が難破・漂流してアメリカの商船に救助され、リンカーン大統領と会見の経験もあり、帰化してアメリカ国民となりましたが、日米修好通商条約で日本が開国した後に、領事館通訳として採用されて日本に戻っています。そして居留地で1864年(元治元年)英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊、これが日本で最初の日本語の新聞となって、ジョセフ・ヒコは「新聞の父」と言われています。

 兵庫城跡、最初の兵庫県庁があった場所です。

 十三重の石塔、平清盛の墳墓として清盛塚と呼ばれていましたが、墳墓ではなく清盛の供養塔のようです。平清盛の銅像もあります。

 その傍らに、琵琶の達人であった平経正の琵琶塚があります。

 大輪田泊(兵庫津)の中心地だったところのようです。今は新川の運河は、トラック輸送に代わっているようです。

 江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した北前船の水揚げ地跡です。北前船は北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かって航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことです。

 築島寺、この辺りに中世の兵庫北関があったようです。

 賀川豊彦の生誕地の石碑です。生活協同組合運動を通して日本最大の生協となった「コープこうべ」の創立者であり、明治時代には日本最大のスラムと言われた新川スラム問題を取り上げたキリスト教の牧師でもあり、アメリカのプリンストン大学・プリンストン神学校で学んで、プロテスタントの教団「イエス団」の創始者で、キリスト教系新聞の「キリスト新聞」の立ち上げもしています。戦後は政治家として。幣原内閣解散後に、吉田内閣組閣が難航した折には、賀川豊彦が総理大臣候補として検討されたこともあったそうです。また4回にわたりノーベル平和賞候補者として推薦された経歴もあります。

 神戸の繁華街・三ノ宮の由来は、三ノ宮神社で、一ノ宮から八ノ宮までの生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)が神戸に点在して、七ノ宮神社が兵庫津の東端に位置する場所にあります。

西国街道の東の端、七ノ宮神社の北に位置する「湊口惣門」跡の石碑です。

 兵庫の町を散策して、兵庫図書館に立ち寄って、そして看護師の検査結果の説明を受けました。

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