教派色

 個人的には、礼拝・礼典において、「教派色」は出来るだけ抑えた方がいいのではないかと思っています。「教会での礼拝」は、もちろん、その教会を建て上げている教会員が(語弊がありますが)「メインの対象」だとしても「教会員のためのもの」ではない様に思うんです。主を信じる「キリスト者」に開かれるべきだと思います。(聖書研究会なりで、思う存分に教派色を色濃く出せる場面はありますから)

 妻は、私とは別の教派の教会に通っているのですが、聖餐式が礼拝とは別に、礼拝が終わって一段落ついてから、教会員が再び集まって聖餐式を持つとのこと。わたしにとってはあまりしっくりしないのですが、それなりに筋が通っているます。(礼拝はオープン、聖餐式はクローズドと棲み分け)

 他教派・他教会のキリスト者の陪餐を認めている教会では、「霊的な」キリストの現存と、「真の」キストの現存との差が(その教会の立場と)大きく違ったとしても、それでも「開かれてしまっている」様に思うんです。(私がこれまで経験したプロテスタント教会では、そういうことに対して、おそらく「無頓着に」オープンでした。)

 「キリストの血肉によって信じる自分のlife(いのち、生活)が養われる」という共通点がしっかりしていれば、何の問題もないとは思いつつも、でも、教会史での聖餐(ミサ)理解をめぐっての教会の分裂・闘争という現実の姿を読むと、「共にキリストの血肉を喰らう」というのは、私が思っている以上に重たいことなんでしょうね。
 Jun17,1998

itsumi
聖餐