聖餐/生命線

教会って、ひとりひとりの信仰者が建て上げるという面と、キリストを頭とする面とがあると思います。ボトムアップとトップダウンと云ってしまえば、また違ったニュアンスをも併せ持ってしまいますが、直接聖書に根拠を持つ部分と、聖書的だけれども信仰の伝統(教会の伝統)が培った部分の2つに分けて私は考えることがあります。
 
 プロテスタントの流れのキリスト者として洗礼と聖餐という2つの聖礼典「そのもの」を「直接聖書に根拠を持つ部分」と考えますが、2つの聖礼典にまつわる多くの「聖書的だけれども信仰の伝統(教会の伝統)が培ったもの」もあると思います。
 「変化しないもの」と「変化していくもの」、もっと踏み込めば「変えてはならない部分」と「変えなければならない部分」です。言い換えれば「絶対的」な部分と「相対的」な部分です。(その境界は明確ではないでしょうが。)
 
 私にとって、2つの聖礼典「そのもの」は「絶対的」な部分という意識がありますが、2つの聖礼典にまつわる多くの「相対的」な部分があるという意識もあります。
 
 聖餐を大切にするということは、「変えてはならない部分」を守りながら、contextに応じて「変えなければならない部分」を的確に変化させることなのかなあと思います。形式的でもいいから守り抜くべき部分と、形骸化するならむしろ現状の中で生き生きとするように変える部分を見分ける「目」が欲しいと思います。

  Dec10,1996

itsumi
聖餐を巡って