事情があって洗礼を受けられない者

 信仰義認の「信」の内容ってなんなんだろうなと考えることがあります。
 
 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
  ローマ10:10 新共同訳
                      
 受洗によって天国に行くことを「信じている」からこそ、「天国泥棒になりたくありませんもの」と口で言い表して洗礼をお受けにならなかったその方の信じていた「もの」って一体なんだろうなと思いました。もちろん、他人の信仰を云々するのではなく、その方の信仰から学びたいという思いです。
 
 私は洗礼を受ける前に、牧師に「私を教会に導き、その後もフォローしてくれた兄弟から洗礼を受けるのではなく、何故、牧師から洗礼を受けるのですか?按手礼ってなんですか?」というような問をしました。その牧師の答えの中で印象に残っているのは「秩序」ということです。

 一伝道師として自宅で集会を持つことからはじめて、単立のプロテスタント教会として自宅の一室で日曜礼拝を持つに至ったそうですが、その後神学校に通い、按手礼を受けたそうです。そのことを「秩序」という言葉を用いて話してくれました。
 
 教会に通い、聖書を読み、信仰を持ちながらも、洗礼にこだわりを持っていたのですが、牧師の「秩序」という言葉によって洗礼を受けました。今も教会の洗礼式の度に、「教会の秩序」ということが頭に浮かびます。
  Nov28,1996

itsumi
聖餐から洗礼