賛美

 3年ほど前に、ほんの3カ月礼拝に出席した教会の牧師が、説教の中で「もし、死後天国ではなく、地獄へ落とされたなら、それが神の御心なら、燃える炎の中で、なおも私は、神を賛美しよう。」というような
ことを云われ、大きなショックを受けたことがあります。その直後にその牧師は、大きく育った教会を離れ、無牧となった地方の伝道所に開拓伝道に向かいました。かなりお歳を召された方でした。

 信仰・救いというと天国を連想します。私はまだ死を実感することもなく、どちらかというと「青臭い信仰」でしかありませんが、それでも洗礼を受けて数年が経過するうちに、自分がクリスチャンであること、そして、死後は天国へ行くことが、なんだか当たり前のように感じるようになっています。

 「値なしに義と認められ、本来資格のない者が、天国へ行くということは、正に天国泥棒ではないか」と気付きました。

 いつのまにか、神のみ言葉を聞き、洗礼を受け、まがりなりにも教会につながっている自分を「信仰の合格者」と思い込んでいたような気がします。

 今、ルカ18章のパリサイ人と取税人の祈りの話が、痛いです。

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 新約聖書 ルカによる福音書 18章13、14節 新改訳

 日々糧が与えられ、賜ったいのちを日々生かされている、そのことだけでも、ものすごいことです!賛美を重ねても、感謝の祈りを重ねてもあまりあるアメージング・グレースです。たとえ地獄に行こうとも、燃え盛る火の中で、賛美に賛美を重ねても、あまりある恵みかもしれません。

 妻の友人がエホバの証人の伝道を受け、楽園を目指して来月から伝道活動をするとのこと、そのことを奇異に感じ、救出しなければと思いつつ、「じゃあ、おまえはどうなんだ?」と自問すると、ほんとうに自分
自身は神に委ねきっているのかな?との思いが頭を横切ります。

 取り留めのないことを書きましたが、いろいろ考えさせられました。そして、これからの私の信仰の課題でもあるのかも知れません。
 Dec26,1996

itsumi
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