神の義

 もし、わたしが<聖>であり、わたしの中に<義>があるなら、わたしは神を求めないでしょう。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
 新約聖書 ローマ人への手紙3章11節~13節 新改訳

 私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
 新約聖書 ピリピ人への手紙3章8節より9節 新改訳

 わたしは俗なのです。わたしの中に義はないのです。(人間的な、相対的な正義感はあっても、絶対的な義はないということです。)だから、だからこそ、わたしは神の義を求めるのです。神を賛美したいと心から願うのです。聖餐によってrealに神とつながりたいと思うのです。

 畏れるもの、過ぎ越しの神が、我々の<俗>の中で息をする、聖が俗の中にやってくる。そうなんです、だからすごいんです。だからキリスト教でなければならないんです。だから三位一体でなければならないんです。だから仏像の前に佇んでいてもわたしはキリスト者以外の何者でもあり得ないのです。

 もしわたしがヨーロッパの保守的なキリスト教のしみこんだcontextの中にあったなら、今と全く違う信仰の姿勢で神に対峙していたのではないかなと考えます。

 わたしは神学的な興味から<宗教多元主義>を考えているのではないのです。<わたしの宗教多元主義>(John Hickのでは決してない、もっといえば慶応の間瀬先生のとも多分違うかもしれません)は、神のsympathyと人のsympathyを分けているのです。リアリティではなくReal(realではない)を目指しているのです(多ではなく一を見ている)。そのRealがわたしにとっては三位一体の神なのです。そして、その三位一体の神との接点が聖餐なのです。主の体と血なのです。わたしにとって、けっして空洞化されないものです。

 わたしは《「信仰のリアリティを共有出来ないほど異質のcontext」の存在が先だ!と私は思っています。》との意見にただただ同意します。そして、だからこそ『「聖餐」を中心に置く「聖餐共同体」』を基にする(聖なる公同の)教会が必要だとひとこと付け加えたいです。

 ありがたいことに、わたしは新約の中にいます。聖が俗に入り込んでくれたのです。遠藤のイエスをわたしのイエスとすることが出来るのです。人間イエスなのです。

 神は「聖」や「義」を要求はしませんよ。ないんですから。そのことを神は知っておられるのですから。だから「神の義」を求めるのではないですか?

 「畏れ」についても、人間イエスを見る限り、畏れることはないのでは?そのために俗の中にやってきて、<人と人とのsympathy>を共有しているのではないんですか?
  July27,1995

itsumi
信仰