絶対依存の相手

「的はずれ」は「神様の意図をはずす」ということではなく、<委ねる相手を間違えてはならない>というつもりです。甘い言葉につられて、サタンに委ねてしまったら大変ですよね。

 《的を射抜こうとする邪心》こそが、サタンの思うつぼですよね。「神様、俺に任せて下さい。俺ならうまくやれる!」これは信仰が強いように見えて、もっとも危険な状態ですよね。神様の備えた道を歩むんですよね。自分が道を探り、訊ね、自力で見つけるんでは決っしてないんですよね。《人間、的に向かう時は、的を射抜こうとする邪心を捨てよ》っていい言葉ですね。

 8月第一週の聖餐式、ものすごく暑かったこともあり、また牧師の説教がいつもより長かったこともあり、聖餐式が始まる頃にはグタッーとなってしまいました。こころの余裕というか、こころの供えというか、そういうものがない状態で聖餐式に臨んでしまいました。

 イエスの血と肉を喰らう、天のイエスにまみえる、という実感(リアリティ)がまったくない状態で、パンとぶどう酒を口にしました。

 この度の聖餐式での<拠り所>は、『聖餐の事実』でした。

 パンとぶどう酒という、見える品々にあずかって、<現実にまた実際に>主のからだと血を喰らったという事実です。
 August9,1995

itsumi
信仰