使徒信条

 使徒信条の最後の「我は聖霊を信ず、・・・」の部分は、教派によって、同じ言葉を用いて信仰を告白しても、その言葉の意味するものは異なっています。『聖なる公同の教会』『聖徒の交わり』『罪の赦し』『身体のよみがえり』『永遠の命』は、それぞれ教派によって、解釈の巾が多分にある部分です。

 しかし、「主は聖霊によりてやどり、・・・」以下の部分は、事実関係の記述ではないでしょうか?解釈の巾が、ひじょうに小さいように思うんですが・・・。この部分を、自らの信仰の内容として口で告白することは、すなわち聖書の歴史性を尊重することになるように(わたしは)思うんです。

 『乙女マリアより生まれ』『三日目に死人のうちよりよみがえり』『天にのぼり』等の言葉を自らの信仰の内容として口で告白するか、あるいは、そうありたいと希望を述べるのか、(言葉が悪いですが)呪文のように口にするのか・・・さまざまだと思います。もちろん個々の信仰者の方の信仰の内容を今とやかく言っているのではなく、聖書の歴史性を尊重する立場にない方が、使徒信条を自らの信仰告白とする場合は、使徒信条の解釈云々の問題ではなく、理性と信仰の整合性の問題のように思えるんです。その整合性
をひとりひとりの信仰者の方はどのようにされているのか、教会ではどのようにガイドされているのかな、と疑問に思ったのです。

 使徒信条の最後の部分の「我は聖霊を信ず、・・・」は、教会観とか礼拝観によって、解釈の巾がひじょうに広い部分です。エキュメニカルな信条の大枠の中に留まるといっても、その信条を信仰告白として信仰の中心に置くのか、それとも否かで、(たとえ大枠の中に留まったとしても)かなり異なるのではないでしょうか?
 September7,1995

itsumi
信仰