一つの決心

 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
  旧約聖書 詩篇119:71 新改訳

 求道中に通っていた千葉の教会で、はじめて洗礼式に立ち会ったとき、私には出来ないと思っていました。「自分の心を明け渡すこと」に抵抗があったのです。

 私は、「自分を失うことなく信仰を持てる」とは今は思いません。もちろん私は信仰を持って、自分を失ったわけではありません。いやむしろ、自分を大切にしていると思います。ただ、「自分中心」から「神中心」へと、<私の神>から<神の前の私>へと私ではなく神を基準にして自分を考えるようになりました。私は神の奴隷ではありません。人格を持った存在です。「そこに存在する神」に向かい合う存在としての私です。

 「明け渡すことが恐い」という感情は痛いほどよくわかります。私にはそのことで、何の力にもなりません。ひとりひとりの問題だと思います。

 それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。――あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。
 旧約聖書 申命記8章16節~17節 新改訳

三好達治の小さな詩を紹介します。

 百舌(もず)
槻の梢に ひとつ時黙つてゐた 分別顔な百舌
曇り空を高だかと やがて斜めに川を超えた
紺屋の前の榛の木へ …… ああその
今の私に欲しいのは 小鳥の愛らしい 一つの決心

 私に信仰は、「槻の梢」から」榛の木」へ飛んだ百舌の一つの「決心」のようなものです。私の信仰は決して理屈ではありません。感情でもありません。強いて言えば、決心かもしれません。
 Feb22,1996

itsumi
信仰