「何か」を信じる

 先日、京都の伏見稲荷を訪れました。稲荷信仰についてほとんど何も知らず、ただ赤い鳥居(?)が延々と続くの見に行ったのです。結局、稲荷信仰について知ることもなく、ただの「観光」に終わったのですが、伏見稲荷の中で「ぼけの為の」・「足腰の為の」といったお稲荷さま(神?)を見かけました。そして、そこに御神酒かお供え物を持ってお参りしている方を見ました。

 私は、その熱心にお参りしている方の信仰をとやかく云うつもりはありませんが、私の信仰とは異質である、というのが私の正直な感想です。

 一緒に鳥居を見に行った妻(キリスト教の信仰を持っていません)にも歩きながら話したのですが、私にとって「信仰」とは、私の欲望・願望を叶えてくれる「何か」にお願いしたり祈ったりすることではないんです。また「何か」はわからないが「霊験あらたかなモノ」への神秘的な気分に浸ることでもありません。

 教会の礼拝の説教の中で、ある教師(牧師)の方が、「神は自動販売機ではない。欲しいモノをボタン(祈り)一つで得られるのではない」と云われたことが耳に残っています。願望・欲望を叶えてくれるモノを人間が造り上げ、それを「信仰の対象」にする事を、この「私」は「信仰」とは思えないんです。

 「肌に合う宗教」と言う表現とははまた違ったことです。が、でも「肌に合う宗教」というのは「私の選んだ宗教・神を信じる」ということではないでしょうか?「私の好きな神」「私の願いを叶えてくれる神」「私の肌に合う神」である限り、信仰のSubject(主語)は「神」ではなく「私」だと思います。

 私は信仰とは、最終的には「受け身」だと思います。Subject(主語)は「神」であると思います。

 禅宗の古い言葉だと聞きましたが「我は、我ならぬものによって、我なり」という言葉に共感します。この私(自我)を、他ならぬ私(自己)にするところの「我ならぬもの」である「何か」に対して最終的に「受け身」となることが私の「信仰」です。
 Aug7,1996

itsumi
信仰