責任転嫁

 私が教会の敷居を跨いだのは、当時勤めていた会社の同僚に誘われてのことす。

 その同僚の方は「私が信じたんだから」、「教会って良いよ」とアピールしてくれるのですが、彼がしきりに 伝えようとすることが当時の私には伝わらなかったです。 しばらくして私が教会から離れたことを、その同僚は当時、苦い経験と受け止めていたかも知れません。

 もし同僚から伝道を受けなかったら、私は勤めていた会社を辞めることもなかったかもしれません。失業することもなかったでしょう。この世的な幸せを享受し、大企業の社員として、それなりに満足していたかもしれません。

 でも、同僚を通しての伝道によって、触れることの出来た信仰・聖書・神によって私の「視点」が変わり、「この世的な幸せ」ではないものに目が向いたのです。それは、まさに「神のみわざ」です。

 ある高校教師のかつての生徒さんが、その先生の勧める大学へ進学後に、自分のやりたいことを見つけて大学を中退して働いているという話を聞きました。もはやその先生の「功罪」ではなく、神の「功罪」だと思います。その生徒さんも、大学を中退し、一人暮らしをすることになったのは、自分の問題(神と自分の問題)として考えた故だと私は思うのですが。

 もっと言えば、大学を中退し、一人暮らしをしながら、自分のやりたいことを見つけて働いている彼女に、「ごめんね」は失礼かもしれませんね。「自分のやりたいことが見つかって良かったね。」と言って欲しかった、その言葉を恩師の先生の口から聞きたかったのかもしれません(あくまでも私の勝手な仮定です。)

 ひょっとすると、その先生が、かつての生徒さんに言った「ごめんね」は、「もっとも謙虚ではない言葉」ともとれるのではないでしょうか?

 「功は神のみわざ」と感謝し、「罪は自分の足りなさ」と反省する姿は謙虚なようで、しかし自分を「悲劇のヒーロー」に仕立て上げて、酔いしれている部分があるのかもしれません。

 私を洗礼に導いた牧師は、「信仰とは、全面降伏です。神様への無条件降伏です。私は神様にはかなわない、と思って信仰を持ちました。」との言葉を聞いて、「洗礼の決心」を持ちました。

 まさに「無力さと貧しさの発露」に触れて、です。
 Oct23,1997

itsumi
信仰