私の隣人は?

 報道によって、毎日のように伝わってくる多くの「災害」、「事件」、「不幸」が記者のレポートを通して、またテレビカメラの映像を通して生々しく(リアリティを伴って)私に飛び込んでくるのですが、それらの中で、どれだけのものに<この私が>リアリティを感じるかを考えると、「事実として存在する不幸」(現実)を現実感を持って受け取れない自分の姿を見ます。

 ルカ伝福音書の中で、律法の専門家がイエスにたずねた「私の隣人とは、誰のことですか」の問いが、そしてイエスの「その人にあわれみをかけてやった人です。」との答えが、私に迫ってきます。このよきサマリア人のたとえ話でサマリア人に自分を重ねていたことがありましたが、今は、この律法の専門家に自分を重ねてしまいます。

 私は、聖餐を通してイエスの血と体にあずかることはできても、キリストであるイエスにならうことは出来ない様な気がします。ただただ、絶対で、無限なイエスと共に歩む(並んで歩むのではなく、ずっと後ろの方を見え隠れしながら・・・)ことしかできないかもしれません。遠藤周作の「沈黙」の中のキチジローの様に。

 世の中の大きな不幸に無関心でおれる自分なのに、身近な出来事には心が痛みます。

 昨日、知人からエアメールが届きました。神学校を一年休学して、今はカナダのエスキモーの村で伝道の奉仕をしているそうです。彼は短波放送の伝道番組を聴いて当時私の通っていた教会を紹介されたそうで、その頃の高校生の面影を思い出すと、B5の紙4枚の裏表びっしりの手紙が、彼のこの10年の歩みの重たさなんだなと思いました。

 彼にとっての「隣人」と、私の「隣人」の範囲は確実に違う、と思いました。
 Mar6,1996

itsumi
愛・隣人