相対から絶対へ

 わたしはキルケゴールを途中で投げ出した人間です。ついていけなかったのです。でも惹かれるものがあります。《自我の目覚めの目眩の中でしか》読めないのかもしれませんね。反対に、今現在、ひとりの社会人として、この現実の世の中にありながらキルケゴールに接することが出来れば、それはすなわちキルケゴールを超えたことになるんでしょうか?(詭弁?)

 『あれかこれか』ではなく、『あれもこれも』と思えるようになるためには、絶望の淵に落ち込まなければならないのかなと思います。相対的な存在の人間が、絶対的なものを仰ぎ見ることは、ほんとうにむつかしいことなのかもしれません。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
 新約聖書ピリピ人への手紙3章12節 新改訳

 わたしは教会から離れた求道生活(?)が何年かありました。そして、聖書にのめり込めなかった人間です。説教と、賛美と、聖餐の揃った東京のある教会に出逢って、今のわたしがあるのです。今のわたしの信仰があるのです。

 聖書だけでは得られなかったものを、教会(説教・賛美・聖餐)を通してイエス・キリストがわたしを捕らえて下さったのかなと思っています。

 キルケゴールを途中で放り出してしまいましたが、わたしにとって、一つの通過儀礼(?)であったのかなと考えます。

 教会から離れて、職も失って、埼玉の公団住宅でただひとり(わたし自身は在宅留学と呼んでいましたが)聖書に向かい、神を求めていた期間が1年ほどありました。この世的には履歴書に空白期間が生じ、無駄でしかないことが、しかしわたしにとっては『キルケゴール』であったのかもしれません。

 神学とは、神学者が、理性という『たまもの』による、神への賛美にほかならないのではないでしょうか?

 この1カ月ほど、机の上にカルヴィンのキリスト教綱要がずっとあります。第4篇の教会の第15章から19章までが聖礼典について書かれてあります。あまり読まないまま机の上にあるので説得力はないのですが、カルヴィンの聖餐論は、ツヴィングリの「象徴」(Symbolum)とは決定的に異なり、むしろローマ・カトリックの「実質変化」(Transubstantiatio)やルッターの「共存」(Cosubstantiatio)に近い「事実・霊的現臨」(really but spiritually Presence)との表現が、わたしには妥当なように思えます。
 August 25,1995

itsumi
宗教・信仰