沈黙の神

 私の信じている神は、信仰を持つ者に、(この世的な意味での)「幸せ」をもたらすことを期待できない神です。そして私の側からもあまり強くは期待していません。(しばしば神様!とわがままをぶつけますが・・・)

 私の住んでいる街神戸は、昨年の大震災によって多くの被害、犠牲者を出しました。無傷の教会もありましたが、全壊・半壊の教会もありました。犠牲になったキリスト者の方もいらっしゃいますが、(私を含めて)そうでないキリスト者もいます。

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
 旧約聖書 伝道者の書3章11節 新改訳

 私にとって主観的に好ましい出来事を通して御名を崇めて、信仰にとってプラスに働かせることは出来ても、主観的に好ましくない出来事を通しては、御名を崇めることも、信仰にとってプラスに働かせることも、ひじょうに困難です。というより、信仰の土台が崩れそうになるのは事実ですが、しばらくして客観的な視点を持つことが出来るようになった時に、摂理なのかなと思うことがあります。

 ある神学校の教師が云った「神は、自動販売機ではない。」との言葉が印象に残っています。つまり、”神は私の欲望を満たし、(私のための)祈りに答えてくれる存在ではない」と。もっと云えば、この私を、(私の考える主観的な意味での)「幸せ」にしてくれる存在ではないと。

 私の神は、沈黙の神です。飢餓で死を待つ者に対しても、民族間の戦いの中で倒れる者に対しても、不慮の事故に遭った者に対しても沈黙されます。もちろんこれは”人間の側”の視点からは沈黙しているように見えるだけであります。

 沈黙の神は私に対しては明確に祈りにも答えてくれたことはありません。でも、決してモノローグではないと確信しています。

主は与え、主は取られる。
 旧約聖書 ヨブ記1章21節より 新改訳

 いのちを賜い、そしていのちを奪う神を、我が神と呼びたいと、心から思います。

 自分(自我)中心から神(絶対他者)中心へ・・・・、ホスピスの存在意義は、死を待つ患者に対して「やすらかな死」を目指すのではなく、いのちを賜い・奪うものを通して「賜物であるいのち」を振り返ることではないのかなと考えたことがありました。
 Mar23,1996

itsumi
宗教・信仰