明石

 今住んでいる神戸市垂水区は、太平洋戦争前の昭和16年7月に、明石郡垂水町から神戸市須磨区に編入しています。それまでは明石郡だったわけで、明石のテリトリーでした。

 昨日の12月4日に明石の街をブラブラしました。自転車で通り過ぎることも多く、車での出掛けることもありますが、電車で明石の街を訪れるのは久しぶりです。

 明石駅の南側の広場です。30年ほど前までは、山陽電車の明石駅が、この辺りに地上駅としてありました。自宅からは神戸の街・元町や三ノ宮よりも近く、電車賃も安かったので、明石の街はよく来ていました。

 今は名前が変わっていますが、以前はJR明石駅は「明石ステーションデパート」という名前で、高架駅の2階に本屋さんとレコード屋さんがあって、アルバイトのお金を貯めて、ここでレコードを買った記憶があります。今はレストラン街になっていました。

 山陽電車の地上駅と国道2号線の間には、ダイエーが東西に何棟か連なるように並んで、映画館もありました。阪神淡路大震災の時は、神戸で映画の上映がなかったので、明石まで観に来たこともありました。そして山陽電車の駅から明石の街へは、ビルの狭間のような処が抜け道になって、其処に飲み屋街があったのですが、今は「パピオスあかし」という34階縦のビルとなって、その中に飲み屋街があります。

 国道を挟んで南側に「魚の棚(うおんたな)」という大きなアーケード商店街があります。目の前の明石海峡で獲れた海産物地を中心に、商品が並んで、明石の観光名所のひとつです。

 明石のタコ、明石鯛をはじめて、獲れたての魚や、乾物から焼き物、刺身、そして名物の「玉子焼き(明石焼き)」も、写真の店は行列が出来ていました。

 商店街を通して眺めると、大漁旗が賑やかで、漁村の市場という雰囲気です。

 この玉子焼の店は、店頭に茹で上がったタコを並べていました。干しダコは、明石の漁港で夏場の昼に天日干しを見掛けることはありますが、茹でダコが並んでいるのを初めて見ました。

 明石駅の西側にスクランブル交差点がありました。此処は高架化前に山陽電車の線路があった処で、おそらく踏切があったと思います。写真右のビルの間の道路が、山陽電車線路跡になります。元町の大丸前のスクランブル交差点や、渋谷のハチ公前のスクランブル交差点と違って、駅前ですが、休日でもそれほど人通りはないと思います。

 明石城の入り口に中部幾次郎の銅像です。明石の林崎の漁港にあった商店を、丸に「は」の字のトレードマークのマルハで有名な大洋漁業を立ち上げた地元明石の功労者です。

 史跡・明石城跡です。本丸はなく、左右に櫓(やぐら)があって、JR明石駅の真正面に見えます。明石城跡は、県立明石公園となっています。

  ここからの写真は、スマホのカメラ機能ではなくて、このキヤノンのミラーレスカメラで撮った写真です。焦点距離22mmでF値がf=2.0の単焦点レンズ、換算35mmの標準域です。最近はスマホのカメラ機能ばかりでしたが、久し振りにデジカメでの撮影です。

 明石公園内の南側は芝生が広がって、何本かの巨木が芝生の中にそびえているのが印象的です。

  その芝生の中にある「武蔵の庭園」の入り口、これは初代の明石城主である小笠原忠政が、宮本武蔵に設けさせた「樹木屋敷」という建物と庭園です。

 庭内の池に架かる石の橋と松の木がある小島。

 武蔵の庭園から眺めたお城です。

 武蔵の庭園の東には、芝生の中にバラ園があります。季節外れのようで、あまり咲き誇っていませんでした。

 何輪かは、綺麗に花開いていました。

  大きな日時計があります。小学校に日時計があり、季節によって補正があったのを覚えています。出身の小学校はかなり校舎が建て替えになって、校門にあった綺麗な藤棚や、二宮金次郎像もなくなっているので、その日時計もなくなっているかもしれません。

 お城に上がる石畳の階段です。高校生のカップルが「チヨコレート・パイナツプル・グリコ」と楽しそうにジャンケンをしながら階段を上がっていました。

 その階段から眺めた2つの櫓です。

 元々は明石の城は、明石川の右岸、現在の林崎の漁村にありました。安土桃山時代に、豊臣秀吉から播磨国明石郡の6万石を与えられた高山右近が、中世からの城・枝吉城から船上城に移転をしたのですが、元和3年(1617年)に、それまで播磨一国を支配する姫路藩池田家の所領だった明石郡が、信濃松本藩主・小笠原忠真が転封となって明石藩主となって、明石川の左岸の人丸山に明石城を築城することとなったそうです。

 廃城となった三木城や高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し、坤櫓(西・向かって左)は伏見城、巽櫓(東・向かって右)は船上城の遺材が使用されたようです。10万石の譜代大名の居城にふさわしい城として2代目将軍・徳川秀忠は旗本を普請奉行として派遣し、築城費も支給したそうですが、結局は天守閣は台石を積んだだけで造営されぬまま、最初から2つの櫓だけだったようです。

 なお、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は室町時代に播磨・備前・美作の守護だった赤松満祐が、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害し、その後播磨で幕府方討伐軍と争った「嘉吉の乱」で激戦地となったのが、この人丸山一帯だったそうです。

 帯郭付近からの坤櫓(西・向かって左)です。

 本丸があった辺り、師走の好日、やわらかい冬の陽射しを受けて、ベンチが佇んでいました。

 この辺りが、明石城の中核・本丸御殿があったようです。

 明石公園内に大きな「剛の池」があるのですが、それとは別に本丸の北側に小さな池がありました。初めて訪れるような気がします。紅葉が冬の陽光に真っ赤に輝いて、池面(いけも)が鏡面のように、その輝きを映していました。

 冬の陽射しですが、結構、眩くて 枯葉が舞い散る地面を照り輝かせていました。

 明石公園内にある大きな「剛の池」、柿が木に実ったまま、鈍く赤味を輝かせていました。この池の傍らの坂道を上ると県立と市立の図書館当時は並んで、夏休みには冷房が効いた図書館に受験勉強に来ていました。朝、図書館に入って、お昼は、この池の傍らの坂を通って明石の街でお昼を食べていたのは、今から四十数年前の遠い記憶です。

 水鳥が、のんびりと池の中を泳いでいました。

 剛の池の池面も静かで、池周辺の紅葉を映して、黄色く輝いて、眩いぐらいです。

 師走の空が澄んで、どこまでも青く、坤櫓(西・向かって左)の城壁の白さを浮き彫りに輝いて見えます。

 単焦点レンズなので、2つの櫓が一枚の写真に納まらず、構図に苦労しました。

 ススキが逆光に輝いていました。

 つい、何枚も写真を撮ってしまいました。

 素朴な枯れたようなススキの輝きに魅せられました。

 ふと目を遣って、良いなあ~と思った光景を、換算35mmで画角が60度ぐらいで切り取った、明石城の光景です。

 ローアングルの構図が好きなのですが、最近は街中でのローアングルの写真を撮るのには、気が引けますが、公園内では気兼ねなく、「落ち葉」をローアングルで撮れます。

 見上げた坤櫓(西・向かって左)

 木の枯葉が赤く輝く背景に坤櫓を置きました。

 園内の図書館の入り口付近には、太平洋戦争の時の空襲の被害を刻んだ石碑がありましたが、お城の南側の芝生の片隅に、阪神淡路大震災の被害を刻んだ碑があることを知りませんでした。

 「これは いつかあったこと。
  これは いつかあること。

  だから よく記憶すること。
  だから 掘り返し記憶すること。

  このさき
  わたしたちが生きのびるために」

 その碑の傍らに、しっかりと張った根っこ、快晴の冬の陽射しが木漏れ日として根っこまで届いています。乱反射もあってなのか、木漏れ日が虹色に輝いていました。

 明石公園の芝生越しに、駅前の高層ビル「パピオスあかし」です。

 武蔵の庭園の入り口の脇にある大きな木の下で、親子が佇んでいました。なんとなく微笑ましい光景にシャッターを押しました。

 お城の南側にはお濠が残っており、電車で明石公園に向かう時は、このお濠端沿いに入り口に向かいます。

 そのお堀端を、小学生の下校の風景です。

 城下町ではない神戸には、街の真ん中にお城があって、お濠の水面(みずも)に街が移る光景は残念ながらありません。お堀端のすぐ前に駅があるのも珍しいなあ~と、ふと思いました。

 お濠にも、水鳥が優雅に泳ぎ廻って、噴水も優雅に水の輪をつくっていました。

 お堀端沿いの道路を渡ると。目の前がすぐに明石駅です。

 最近は大きな駅でも自動券売機の数が減って平日の昼下がりに行列が出来ていました。

 駅ピアノが明石駅構内にもあり、熱延するのを一人の観客が熱心に観ていました。

・・・ここまでが、単焦点レンズとミラーレス一眼での撮影

  1時間あまり明石公園内を彷徨って、120枚ぐらいの写真を撮っていました。運動カロリーが250kcal程度で、ちょっとした散歩で、ほぼ有酸素運動と脂肪燃焼でした。

 この日は、元の職場の先輩と明石駅改札口前で待ち合わせ。

 その後、駅構内の「すし処 酒処 道場」で昼飲み。

 お造りと小皿を頼んで、久し振りの再会を生ビールで乾杯。

 お堀端を眺めることが出来る席で、2時間余り、愉しいひとときを過ごしました。