五色塚古墳

 自宅から徒歩圏には、大歳山遺跡(旧石器時代から弥生時代)、明石藩舞子台場跡(江戸幕末)、五色塚古墳(4世紀後半)の歴史的遺跡があり、また巨大な構造物として五色塚古墳以外に、明石海峡大橋があります。

 五色塚古墳の前は散策の経路なのですが、10年以上五色塚古墳を見学していませんでした。久し振りに五色塚古墳を見学しました。

 五色塚古墳は、淡路島を望む明石海峡沿いの丘陵(五色山)にある前方後円墳で、墳丘全長が194mで、後円部の直径が125.5mで前方部の幅が82.4m。後円部の高さが18.8m、前方部の高さが13mで、後円と前方の高低差が5.8mとなります。

 明石海峡沿いの丘陵に、淡路島を望むようにつくられているので、海側(南)が「前方部」で、北が「後円部」となるような前方後円墳です。

 この古墳に葬られた人物は特定されていませんが、大和の都にとって西国の中国地方や四国、九州、そして朝鮮半島や中国大陸との海路として要所であった明石海峡を一帯を支配していた豪族の墓だと言われています。

 小春日和の快晴の日で、空が真っ青でした。大阪や奈良には古墳が多いですが、多くは天皇や皇室関係の墓で宮内省の管轄で、木が生い茂っているのに対して、五色塚古墳は日本で最初に復元整備が行われた古墳で、整備されて階段で上部まで行くことが出来ます。

 階段口付近から眺めた「前方部」で、淡路の島影と明石海峡大橋が霞んで見えます。季節外れの「師走の黄砂」で快晴なのですが、海峡から淡路方面は黄砂で黄色く霞んでいました。

 振り返って、階段付近から眺めた「後円部」です。高低差5.8m分の階段があって、「後円部」の上にも上れます。

 明石海峡大橋が近くにあることからもわかるように、明石海峡が最も狭い部分になります。狭い海峡を通る船が一望できます。古墳の「前方部」や「後円部」は復元された埴輪で囲まれています。

 「前方部」の南の端からの明石海峡と淡路島の眺めです。すぐ下に、電車が走っているのが山陽電車の線路になり、古墳の一部を切削するように線路が敷かれています。

 「後円部」への階段を上って「後円部」へ向かいます。

 階段の途中から眺めた「前方部」の全景です。真正面が明石海峡を挟んで淡路の島影が横たわっています。

 階段を上り切って振り返って眺めた光景です。明石海峡の海面が眩しく照り輝いています。

 東方向には、鉢伏山や旗振山を望むことが出来ます。あの山の向こう側が摂津国で五畿内となって、こちら側が播磨国で西国となり、古代の都のテリトリーと辺境の境界が、あの稜線になります。、鉢伏山の麓が旧・塩屋村、そしてその手前の丘陵が旧・東垂水村そして五色塚古墳があるのが旧・西垂水村となります。

 五色塚古墳の北側には高丸陸(くが)という東西の連なる丘陵が連なっています。写真に写っているのが、今は星陵台と言われています。左端が愛徳学園です。

 師走ですが快晴で陽光が強く、南向きの写真は、どれも逆光気味で、シルエットのような写真になってしまいます。それに季節外れの黄砂で霞んで、ちょっと幻想的な光景です。

 階段を降りて「前方部」です。周囲に埴輪が並んで、非日常的な光景です。

 さらに階段を降りて古墳を後にします。

 入り口にプレハブの事務所があり、受付をします。各種資料の販売もあります。

 出土した埴輪の展示スペースもあります。

1960年以前の復元整備前の五色塚古墳(資料「国史跡・五色塚のあゆみ」より)

 今から60年以上前は、周囲は田畑が広がっていたようです。

江戸時代の垂水名所五色塚図(資料「国史跡・五色塚のあゆみ」より)

 江戸時代から、この辺りの名所だったようで、西国街道から見上げる丘の上にあって、目立っていたことと思います。また瀬戸内海の海路を通る船からも、よく見えたことと思います。

古代の五色塚復元CG(資料「国史跡・五色塚のあゆみ」より)

  古代は、まだ田畑もない明石海峡沿いの丘陵に、ポツンと古墳があったようです。この古墳のある丘陵は、江戸時代になって開拓されており、それまでは人が住んでいなかったようです。

古代の五色塚復元CG(資料「国史跡・五色塚のあゆみ」より)

 現在は住宅地に囲まれています。

 手元にある、五色塚古墳関係の資料です。