「神を見たい」という願いが実現するときこそ、本義としての「あきらめ」が成就するのだと思います。そして、神からの” Who are you?”と、神への” Who are you?”との2つの問いが「その時に完了するんでしょうね。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
 第一コリント 13:12 新改訳 

 静かに聖書を読み、聖礼典(ミサ)にあずかり、神学書を読んで悟るように「あきらめ」る方もいらっしゃることと思います。でも、それは表面的で、その背後には想像を絶するような祈りや内面の葛藤があるのかもしれません。

 私の場合は、自分をさらけ出し、自分を退けることが出来ないままに、結局は、神に焼き尽くされてしまうのでしょうね。罪にまみれた姿、自我(エゴ)のかたまり、それが火の中で焼き尽くされる・・・。

 信仰義認、贖罪、十字架・・・、新しい契約の中にあることを忘れていました!エペソ書でのパウロの叫びが生々しく聞こえてきそうです。

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。
 エペソ 2:5 新改訳より
 Oct3,1997

itsumi
Who are You?