鷲のように

「わたくしはいろいろ考え合わせたうえで、凡庸な修道女の実態は、山賊野盗のたぐいより嘆かわしいと思っています。山賊野盗なら改心することもあり、そうなれば生まれ変わることになるでしょう。でも、凡庸な修道女はもう生まれ変わることは出来ません。もう生まれてしまったのです。それも生まれ損なったのです。」
 『カルメル会修道女の対話』

 凡庸な修道女にはキリスト者としてのリアリティがある(キリスト者らしさがある)にも関わらず、キリスト者としてリアルではなく(キリスト者そのものではない)、そして、キリスト者らしさを持ちつつでは、キリスト者そのものにはなれない・・・。と受け取りましたが、考えれば恐ろしい話ですね。熱くもなく冷たくもないキリスト者って、「全焼のいけにえ」、「捧げもの」からは、程遠い存在かもしれません。

 私は、「自分(の弱さ)を忘れる」ことなく、むしろ自分(の弱さ)を背負うことが出発点のように思います。

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
 イザヤ書 40:31より、新改訳
               

 私が信仰に喜びのみではなく、疲れをも感じるのは、主を待ち望む思いが弱いからでしょう。今のままでも満足、十分と肯定し、「信仰のリアリティ」にどっぷり浸かって、熱くもなく冷たくもないキリスト者だからかもしれません。「主を恐れること」を恐れないことが第一歩。
 Oct12,1997

itsumi
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