恐れずに恐れる

 義、聖、光 等の「ガラス張り」の「正真正銘の真実・正しさ」に対して、今現在、躊躇を感じる部分があります。自分をさらけ出し、自分を退ける「決心」をして洗礼を受けたのですが、しかし甘い信仰生活の故なのか、決心が揺らいでしまったのかもしれません。

 アダムとエバのように、エデンの園で、裸で神と向き合う状態、そんな状態に置かれたら、今の私は苦痛以外のなにものでもないです。

 心から神を求めながら、神へと向かいたいと望みながら、ほんとうの意味での「決断」が「ない」です。正義を求めつつも後ろめたいことがいくつもいくつもあり、清らかさを望みつつも妬みや怒りで濁っており、光の明るさに対して眩しさを感じ薄暗い所でホッとする自分。

 「悪」に対しての嫌悪感を持ちつつも「ガラス張りの正しさ」は窮屈で、「ずるいことが通用する程度」を望んでいる、「小汚い」「薄暗い」そして「黙って得する」ような世界を望んでいる。「決断」という言葉から程遠い自分の現在の姿が浮かび上がってきます。

 「恐れ」という言葉が、今の自分を端的に言い表しているように思います。三好達治の小さな詩「百舌(もず)」にある、小鳥の決心とは反対のものです。「決断は捧げ物です」という言葉を借りれば、「神へ捧げきれない」という状態です。

 「神を恐れること」を信仰というなら、残念ながら今の私の状態は、「神を恐れること」を「恐れ」ています。

 自分をさらけ出し、自分を退けることを恐れている臆病さにたどりつきました。神から傷つけられることなんかあり得ないのに、神に対して「守りの姿勢」をしている自分にです。これも「エゴ」かもしれません。
 Oct10,1997

itsumi
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