傷つく者

 私は時々感じるのですが、被害者の(権利のための)闘争の結果、もっともしわ寄せが大きく、被害が大きいのが、闘争をした被害者自身であるケースが少なくないんではないかなあと思うのです。たとえ闘争
の勝利を勝ち取ったとしても、です。

 闘い続けることの「しんどさ」、自らを鼓舞するためのイデオロギーに反対に踊らされて、本末転倒になってしまう場合もあるように思うのです。イデオロギーの為に戦っているような様相になったとき、闘争の「初心」が置き去りにされて、闘争が「的外れ」へと変容していく・・・・。

 イデオロギーの勝利を勝ち取っても、その結果が、必ずしも小さき者達の「小さい願い」が満たされたわけではない、的外れな勝利。そのことに薄々気がついても、今度はイデオロギーに支配されて、言い出せない雰囲気。そんなこともあるのではないでしょうか??

 このように闘争が迷走しないまでも、弱い者・小さき者が闘い続けることの背後には、どうしても無理がつきまとうように私には思えるのです。

 だからといって、(権利のための)闘争を否定するのではないのですが、立ちあがり・闘う時に付随する自らのデメリットも考えないと、闘いの中で、自らが押し潰されてしまうように思うのです。

 結局は、傷つくのは弱い者・小さい者です。被害者・加害者を問わずに、です。

 弱い者は、「大きな流れに逆らわずにおとなしく・・・」とは思いません。でも、闘うことによって、今度は「闘いの流れ」の中に傷つき、或いは自らを見失うことも肝に銘じなければならないように思うのです。

 結局は、いつも損をしている。でも私は、たとえそうであっても、弱い者・小さい者で居続けたいと思っています。

 隣人の悲しみに、自らの思いを重ねることができるのは、小さい者の特権だと思うのです。

 闘いを放棄するわけではなく、自らの弱さとちゃんと向かい合いたい、と思うのです。
 Aug31,1999

itsumi
信仰を巡っての断片