人の嘘

 「嘘」にも悪意のあるものと、必ずしもそうとは言いきれないものとがあって、十把一絡には出来ないように思うのですが、「責任逃れのための嘘」には、私は悪意があると思います。特に職務上・仕事上での責任逃れは、感情的な問題だけでは済まされないことも多いでしょうね。

 でも、遅刻の言い訳を、流れる汗をふきながら「あれこれ」と見え見えの嘘を並べる姿に、たとえそれが、自分の遅刻の責任逃れに始終しているものであっても、同情を感じることがあります。遅刻という仕事上の失敗の重大さを自覚して、「弱さ故」に口にした嘘。しばらくして、「実は・・・・」と正直に事情を説明されると、私は同情・共感する場合があります。

 個人的にひじょうに重要なことに関して、信頼している人からの嘘の言葉というのは、「裏切り」の場合もあるでしょうし、反対に「事実の残酷さ」に対する「思い遣り」の場合もあるでしょう。「嘘でもいいから縋りつきたい」というような時の、心の余裕がない場合には「嘘」が「愛」のケースもあるのかもしれません。

 貫く嘘(?)が良いのか、それとも、「実は・・・」と正直に事実を伝え、或いは事実を聞くことが良いのか、むつかしいですね。私は「貫く嘘」の背後にある思い遣りや気配り、愛のことも念頭に置きつつも、「実は・・・」と事実を正直に口にする勇気が尊いと思います。そして嘘に縋るのではなく、事実と対峙する勇気をも、です。

 嘘は、人間の弱さ故の罪のように思います。嘘をついて問題から逃げたり、反対に嘘をついて自分ひとりで問題を抱え込んだり・・・・、そんなことよりも、「実は・・・」と事実を正直に口にすることによって問題を共有し、悩みや苦しみを分かち合うことも大切なように感じます。 
 Sep15,1999

itsumi
信仰を巡っての断片