ルミナリエ(その3)

ルミナリエの輝きは、ひょっとしたら「闇」なのかもしれません。

 ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。
 ヨブ記 29:1~29:3 新改訳

 ルミナリエは、「たそがれ時の点灯」が感動的であると云われていますが、私はむしろ、消灯時が好きです。ルミナリエの期間中は、周辺の街灯を消しているので、消灯と共に、付近は闇に包まれます。消灯の瞬間、ため息のような声が辺りに響きます。そして、徐々に、暗闇の中から、深夜の神戸のビジネス街の姿が浮かんできます。

 enlightenment(照明)と云う言葉を連想しました。光が当たると、照らされた面は光の中に明るく浮かび上がりますが、しかし、光の陰となる部分は、コントラストの強さに、ますます闇の中に埋もれてしまいます。光に照らされた、ある一面しか見ることをせず、しかし、自分では全体像を見たと思い込んでしまうことは、結局は、物事のある一面だけで、全体像を判断してしまうことになるんでしょうね。

 ほんとうの意味でのenlightenmentは、光に照らされた「明るい面」と共に、闇の中に埋もれた「陰の面」をも見つめることでしょうね。

 ルミナリエの輝きが、「明」だけではなく、「闇」でもあるのかどうかは、やっぱり、ルミナリエの輝きの下に立ち、自分自身をルミナリエの光の渦の中に投じなければならないように、私には思います。ルミナリエを見る「自分自身の光と陰」をenlightenmentするためにも・・・・・。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 ヨハネ 1:9

 ルミナリエ消灯後の、闇に包まれた神戸の街が、私のもう一つのルミナリエです。テレビや新聞の写真では伝えられていない部分かもしれません。
 Dec16,1999

itsumi
信仰を巡っての断片