3.11

 2011年3月11日は、職場で、後で東日本大震災と言われる大きな地震があった一報に触れて、そのまま大阪で人と会う約束があったので、大阪駅に向かっていました。大阪駅の改札付近では大変混雑して、確か首都圏の震度も大きく津波警報が出ていたので東海道新幹線は、運転見合わせが続いていたようで、結構混乱していた光景で、被害の大きさを実感しました。

 湯葉と豆腐の「梅の花」が、大阪・福島近くにあって、そこを予約していたのですが、金曜の夜にしては、あまり客がいなくてガランとしていた記憶があります。その後、被災の大きさを知って、3.11の当日の夜に街に出掛けて食事をしたことに、少々後ろめたさを感じていました。

 阪神淡路大震災の時は、震源地から数キロの処で、未明の激しい揺れに目が覚めて被災地の真っただ中での生活が続きましたが、東日本大震災は遠く離れた場所で、まだスマホがそれほど普及していない時代だったので、テレビやラジオからのニュース以外では、3.11の当日も震災とほぼ無縁の生活をしていました。そして今年の元旦の夕方の能登半島地震は、正月だったこともあって、リアルタイムにいろいろな情報に触れることが出来たように思います。

 阪神淡路大震災の時は、スマホどころか携帯電話自体がまだ普及しておらず、カメラもフィルム時代で、動画は専用のビデオカメラを使っていた時代、それに未明の午前5時46分で、多くの人がまだ眠っていた時間帯だったので、震源地の近くに居ても状況がよくわからず、しばらくは停電でテレビの情報もなく、明るくなって近所の人と話した程度です。しばらくすると近所の人から、隣の須磨ではビルが倒れたと聞いて、また震源地が明石海峡で、地震がもっともひどかったのは、この辺りだったのかなあ~というのが、地震直後の1~2時間の状況です。明るくなって電池を探してラジオを聞いて、だんだんと被災の大きさを知り、電気が復旧したのがお昼前で、神戸の市街地での大きな被災を知った次第です。携帯電話やデジカメは、それから5年ぐらい経ってから持つようになりました。

 3.11の東日本大震災は午後の地震で、阪神淡路大震災と違って地震直後の津波の状況等がテレビでも放映され、被災者の方々がデジカメやスマホで撮った動画も残っており、そして今年の能登半島地震では、地震の被災そのものが幾つも記録されて、それがテレビ等のマスメディアを経ずに接することが出来る状況になっています

 地震の揺れによる被害も大きかったのですが、それに伴う津波の被害、そして原子力発電所事故もあり、首都圏でも帰宅困難者、そして原発停止による電力危機で計画停電が実施され、福島浜通りでは避難地域に指定され、町の人口がゼロの状態となったケースもあり、農産物や海産物の放射線汚染と、それ以上の風評被害が、その後も長く続いて、13年が経過した今でも復興が進まない状況が残っています。阪神淡路大震災の時は、震災の被害は大きかったですが、10年ぐらい経った頃には、傷痕は深く残しながらも、震災の風化が言われるほどに表面的な復興は進んでいたように感じます。

 3.11の報道に触れて、13年前の当日のこと等をつれづれに・・・

itsumi
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