中崎公会堂(明石郡公会堂)

 明石市立中崎公会堂は、113年前に、当時の「明石郡公会堂」として建てられたもので、先日、弦楽四重奏の演奏を聴いた公会堂です。東経135度の子午線の近傍に建てられ、113年前には「中崎遊園地」の東端に立地していたそうで、当時は公会堂の目の前まで、波打ち際が迫っていたようなロケーションだったそうで、現在の国道28号線の道路辺りが海岸線だったようです。

漱石日記 明治44年8月12日・13日、漱石全集、岩波書店

 明石郡公会堂のこけら落としの講演に招かれたのが夏目漱石です。明石での講演の4年前の明治40年に東京帝大や一高の教職を辞して朝日新聞社に入社し、虞美人草、坑夫、文鳥、夢十夜、三四郎と次々に連載していた頃で、明治44年(1911年)8月13日の午後の講演には、1000人余りの人が押し掛けたそうです。

 先日の弦楽四重奏の演奏会で、椅子席でしたが140~150席でしたので、この場所に1000人は、かなり窮屈だったと思います。当日の講演内容は「道楽と職業」という題目で、青空文庫でもアップされています。

・・・明石という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまで知りませんでした。・・・来てみると非常に大きな建物があって、あそこで講演をやるのだと人から教えられてはじめてもっともだと思いました・・・
道楽と職業、夏目漱石、明治44年8月13日、明石郡公会堂の講演の冒頭

 光が射し込んでる左側の廊下が南の浜側で、113年前には、このガラス戸の向こうがすぐに海だったようです。

113年前に、この建物で夏目漱石がこけら落としの講演をして、西日が照りつける此処に1000人余りが詰めかけたそうです。

 建物の西側の廊下で、階段の下がトイレになっています。なんとなくお寺の本堂のような雰囲気です。

 この「中崎公会堂」も113年前からのものかもしれません。

 漱石が泊まった衝濤館は、中崎公会堂の西側にあったようで、まだかろうじて建物は残っているようですが、当時は海岸線を歩いて2,3分ほどの処になったと思います。結局漱石は、衝濤館に泊まって公会堂で講演しただけで、日記によれば明治44年(1911年)8月12日(土)夜に大阪・箕面から明石に着いて、翌・8月13日(日)の午後に講演、そして夜には大阪に戻って翌・8月14日(月)には和歌山の和歌の浦に向かっています。明石の滞在は丸1日もなかったような短かいものだったようです。

 漱石の門弟の一人となった内田百閒は随筆「明石の漱石先生」で、この時のことを書いています。

 明治四十四年の夏、私は暑中休暇で郷里の岡山に帰って居りました。ある日の新聞で、夏目漱石先生が、播州明石へ講演に来られると云う事を知ったので、早速東京早稲田にいられた先生に問い合わせの手紙を出しました。・・・

 漱石先生が演壇に起たれた時の感激は。二十年後の今日思い出しても、まだ胸が微かに轟くようです。題は「道楽と職業」と云うのでした。・・・

 講演が終った時は、本当に夢からさめた様な気持でした。そうして、直ぐに、こんな講演が又いつ聞かれる事か解らないと云う様な淋しい気持がしました。先生は講演会場から、一先ず衝濤館へ帰られた様でした。しかし私は、先生が大阪に立たれる汽車の時間を、誰かにきいて知っていたので、すぐに明石の駅に行って、先生を待っていました。先生の著かれる前から、構内には紋附がざわついて居りました。間もなく、先生は外の人人と共に体に乗って来られました。先生の傍には中中近づけない様な混雑でした。

 「明石の漱石先生」百鬼園随筆、内田百聞、昭和9年


 



 
 

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