聖餐のクライマックス

 もうこの週も終わろうとしていますが、この日曜の聖餐の余韻がまだ残っています。

 私のこれまでの聖餐理解は、目に見える品々(パンとぶどう酒)が聖霊なる神の働きによって御言葉を通して(或いは聖書に根拠を置く式文によって)実際に、しかし身体的ではなく霊的に十字架のイエスの血と肉となり、それを喰らう信仰者は、十字架のイエスと彼の死のすべての祝福を受け、養われるというものでした。

 もちろんその立場を今も持ち続けているのですが、更に一歩踏み込んで、聖餐において、聖霊なる神の働きによって、霊的に天に座する神の御前に呼び寄せられた陪餐者は、父なる神と顔と顔をあわせて、アバ父と呼ぶことができる。未来における身体的な神との関係の修復の予形として、霊的な神との関係の修復が聖餐の場にあるのではないでしょうか?まさに、アバ父と呼びかけるその時こそが聖餐のクライマックスのように思うんです。

 食事の前の祈り、礼拝の中での公的な祈り、朝夕の祈り、教会の祈祷会での祈り、家族との祈り・・・、さまざまな祈りの優劣をつけることは出来ないし、それぞれに大切だと思います。ただ、聖餐の中で、聖霊の働きによって、十字架のイエスの血と肉に養われて天の御座に在る父なる神の御前に霊的に呼び寄せられた時の、アバ父と呼び掛ける時の祈りは、特別なもののように思うんです。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
  マタイにより福音書6章6節 新改訳

  Feb 9,1996

itsumi
聖餐