「味わう」をめぐって

 私は”シンパシー”とは、彼(彼女)の「思い」を”味わう”ところにポイントがあるように思うんです。

 今、シンパシーを考える中で、喜び・嬉しさについてのシンパシーをも併せ考えると「味わう」ということがネガティブな意味以外な広がりを持っているように思うんです。

 お葬式の参列者の話をされましたが、お目出たいことのお祝いの会を考えると、葬式の場合と同様に、必ずしもお目出たいことを喜んでいる人ばかりがそのお祝いの会に参列しているわけではないでしょう。しかし、義理で出席して「お目出たいことそのもの」を喜んでいない人も、そのお祝いの会を通して喜びを味わっているんではないでしょうか?お祝いの会という「場」の作用によって喜びが伝染される部分があるように思うんです。(もちろん妬み・ジェラシーということもありますが・・・・。)

 知人や同僚のご家族の葬式では、死の悲しみそのものを感じることは(私には)出来ないですが、でも、知人や同僚を通して、あるいは葬式という「場」を通して悲しみが伝わってきます。そして伝染された悲しみを「味わって」いる部分があると思うんです。

 「死の悲しみそのもの」を感じることは出来なくとも、「死の悲しみの中にいる家族の思い」は葬式の中で伝染していっているのではないでしょうか?

 彼(彼女)の苦しみを兼ねることが出来ない悲しみと同じように彼(彼女)の喜びを兼ねることが出来ないことも悲しみだと思うんです。望みが叶い、努力が実って喜びの真っ直中にある彼(彼女)の姿を見たとき、そのことを共に願っていたはずなのに素直にそのことが喜べず妬みを感じている自分自身を見たとき、その人の喜びが自分の喜びとしていない自分自身に「悲しみ」を感じるのではないでしょうか?

 冷静になって客観的に理解しようとするか、主観的に・感情的に悲しみや喜びの真っ直中に突入するか。

 会議の中で、議論が熱中したときに、自分の意見を熱くなって語ることも必要だと思うんです。ただ司会者・議長には冷静な部分、客観的な視点を失っては収拾がつかないですよね。

 「場の作用」というか、「立ち場」というか、客観的に思いを受け止める人と、共に「思い」の真っ直中で抱き合ってくれる人と、それぞれに必要と思うんです。マリアとマルタのように。

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 新約聖書 ルカによる福音書10章41,42節 新改訳
 Feb15,1996

itsumi
愛・隣人