主の体と血

 最近、教会史の本を読んでいて、考えさせられることがありました。

 プロテスタント宗教改革の時代の話ですが、ルッターとツヴィングリが聖餐(ミサ)の理解を巡って(パンとぶどう酒にキリストの身体的存在を主張するか否か)対立したときに、歩み寄るための会談が
持たれ、いわゆる「マールブルク条項」というものが(妥協の産物?)生まれたのですが、聖餐に関する条項の最後に、

「・・・しかし、我々は、キリストの真の身体と血とがパンとぶどう酒との中に身体的に存在するかどうかということについては、只今は折り合えなかった。とはいうものの、一方は他方に対して各人の良心が痛む時には、常にキリスト教的愛を示すべきであり、双方とも、神が我々に、その御霊によって、正しい理解を与え給うようにと、全能なる神に熱心に祈るべきである。」

 当時の状況から、カトリックの方がプロテスタントの教会に「ちょっと礼拝出席」ということはなかったでしょうし、同じプロテスタントでも、ツヴィングリ派の方が「今週はルーテル教会で礼拝を守ろう!」というようなことはありえなかったでしょうね。ただ、あのような状況の中でも「一方は他方に対して各人の良心が痛む時には、常にキリスト教的愛を示す」ということは、多分にあったと私は思いたいです。

 今・現在、聖餐理解が異なる教会で、聖餐(ミサ)にあずかるというケースが少なからずあると思うのですが、例えばカトリックのキリスト者の方が、プロテスタントの改革派教会で礼拝を守り、そこで共に聖餐にあずかるという場合に、厳格な改革派教会では「このパンとぶどう酒が、イエスの身体と血そのものになるということではなく、また、キリストの真の身体と血とがパンとぶどう酒との中に身体的に存在するというわけでもなく、信仰によって霊的にキリストの身体と血とを味う云々」との司式者のことばがあると思うのですが、その聖餐(ミサ)は、そのカトリックの方にとって、一体何なんでしょうか?

 教会の側が「霊的にキリストの身体と血とを用意」し、カトリックの方は「真のイエスの身体と血」を味わったことになるのでしょうか?

 それともカトリックの方にとって「霊的にキリストの身体と血を味わったのみ」で、無効なミサというか、あるいは愛餐にしかならないのでしょうか?

 もちろん逆の場合も考えられますが・・・・。

 主の体と血の前では「キリスト者は平等」と、私は思っているのですが、なんだか、しっくりしないです。
  Jun16,1998

itsumi
聖餐