松平日向守信之

江戸時代のはじめには、明石郡(明石市と神戸市垂水区)は播磨藩の領主である姫路城の城主が治めていましたが、1617年に池田光政が鳥取藩に転封となると、播磨の所領は、姫路藩と明石藩10万石、赤穂藩3.5万石、平福藩2.5万石、山崎藩3.8万石、鵤藩1万石、林田藩1万石の中小藩に分割され、今の神戸市垂水区は明石藩の所領となり、1649年から藩主となったのが松平日向守信之です。
「日向さん」と慕われ、積極的に新田開発を行って、垂水村と山田村の間の丘陵地を切り拓いて垂水新田を開発しています。ただ高台で水の利が良くなかったようで水田だったのかどうかはわかりません。明治になって、垂水新田一帯は、イチゴ畑や牧場が広がっていたようで、神戸の市街地からイチゴ狩りに来る観光客もいたようです。
現在イチゴ畑は残っておらず、牧場もありませんが、中村牧場が残って、昭和の後期から平成の初め頃までは牛乳をつくっていたようです。今は三木の共進牛乳の配達所のような感じです。

牛乳の自動販売機があって、その中に「中村牛乳」ブランドの紙パックが販売されていました。

中村牧場の販売所は前方後円墳の五色塚古墳の西、そして円墳の小壺古墳の北に位置して、その西側は窪地になっています。今も垂水新田の高台の中で、少し低くなって、全体に住宅で覆われていますが、高低差のわかる国土地理院の地図で見ると、窪地であることがわかり、その部分の住宅は周囲より低くなっています。
上記の地図の「+」マークの地点から南東の窪地を写したのが次の写真

傾斜沿いに公園となって、下にグランド、更に下に遊具がならび、その奥は駐車場になっています。

この垂水新田一帯は、山陽電車沿線で、山陽電車が宅地開発をして垂水駅からループバスを巡らして、今も昼間は15分間隔でバスの便があります。市場と称する商店街が2つあったのですが、どちらも今はなくなっています。すでのマンションに建て替わったと思っていたら、中村牧場の北側、窪地際にあった市場の一部は、そのままシャッター商店街のようになって残っていました。この悪がバス道路に面して、その部分はマンションになっていたのですが、奥の部分はそのままでした。

彼方此方で昭和時代から古い家が取り壊されています。ここも同時に幾つかの家が取り壊されていたので、マンションになるのかもしれません。

此処は田んぼの畦道のような感じだったのが、田んぼが造成されて家が建ち、畦道が広くなって舗装されています。

コロナ禍までは、空き地の中の畦道だったのですが、この数年で造成されて住宅地となっていました。

今朝は36分の散歩で、3.06km歩いて、平均心拍数が117bpm、運動消費カロリーが203kcalでした。