舞子浜

舞子の浜、800年ほど前の平安時代末期、日宋貿易に力を入れた平清盛は、神戸港の前身・大輪田泊(おおわだのとまり)を整備して人工島の経が島を築いて大きな港として、そして大輪田泊の近くの福原への遷都を目指していましたが、結局、福原京は行宮(あんぐう)で終わっています。
大輪田泊を整備した清盛は、少し離れた当時の播磨国明石郡の山田村の浜を「山田の浦」として、こよなく愛したようです。当時の高倉上皇が広島の厳島神社への船での参拝の帰りに、山田の浦に寄って、そして大和田泊から福原京へ入ったという記録もあるそうです。
清盛は明石海峡と淡路島を眺めることができる山田の浦の風光を愛で、山田の浦で宴を催し、女児を舞わせたため「舞子の浜」と呼ぶようになったとも言われています。現在の海岸線の多くは、埋め立てられたり、テトラポットで埋め尽くされていますが、一部には浜が残っています。山田川の河口から西へ少し進んだ場所なので、清盛が宴を催した処から西になりますが、清盛が愛でた光景とほぼ同じだと思います。もちろん800年前は架け橋はなかったです。

砂浜の部分は、数十メートルもなく、すぐ西の海岸線はテトラポットで埋め尽くされています。近くで見ると、いろいろな形のものがありました。

山田川の河口です。おそらく清盛が愛でた浜は、この東側ではないかと思います。この山田川河口から眺める海峡景色がお気に入りです。

スマホの望遠レンズで河口付近の水鳥を狙いました。川面(かわも)に架け橋を吊っている太いケーブルが映って、まるでピアノ線のように見えました。