プライド

 信仰にとって「誇り」(プライド)が、ポジティブな意味を持つのか、或いはネガティブな意味を持つのか、考えてみました。

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聖書を開くと

・ポジティブ

 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。
 サムエル記第一 2:1

 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。
 ローマ 15:17

・ネガティブ

 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
 黙示録 18:7

 わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。
 イザヤ書 13:11

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 聖書においては、神を誇りとすることを「是」として自分自身を誇ることを「非」としているように思えます。

 プライドを持つことは、神の目にはどのように映っているのでしょうか?「私はクリスチャンだ!」という誇りはどうなのでしょうか?

 人間としての「尊厳」対「神につくられた被造物」。ひとりの人格を持ち、意志を持った「独立した存在」対神の御前にひれ伏し、委ねる「神に従属した存在」。

 さかのぼって考えると「人としての誇り」って一体どういうことなんでしょうか??

 もっとさかのぼれば、「人として生きる」とは?「幸せ」って?・・・・・・・
 Sep17,1999

itsumi
信仰を巡っての断片