明石文化博物館

 明石市立文化博物館へ久し振りに行ってきました。10年ぶりぐらいです。明石の歴史に関わる展示があり、私が住んでいる垂水(神戸市垂水区)は太平洋戦争前に神戸市に編入したので、垂水が神戸だったのは80年あまり、それ以前の昭和初期や大正・明治、さらに江戸以前の近世・中世・古代までは千数百年は明石郡の垂水郷でした。立派な神戸市立博物館がありますが、兵庫町や神戸村が歴史の表舞台なのに対して、明石市立文化博物館の展示には親近感があります。

 最初は「明石のあけぼの」で、有史以前の明石近辺の地形の変化です。

 2万年前、最終氷期の最寒冷期の頃、完全に明石海峡、播磨灘、大阪湾は干し上がって、明石と淡路や四国が地続きだったようです。

 だんだん温暖化が進んで縄文海進のピークである約6000年前には海岸線が後退して、現在の明石市街地から垂水区の舞子から塩屋辺りまでは海だったようです。ただ、林崎から魚住辺りまでの、海岸線まで屏風壁が迫る辺りは、ほぼ海岸線がそのままで、浜の散歩道が水没するぐらいだったようです。ちなみに神戸の旧・市街地は、ほぼ海の中で、大阪の街も上町台地以外のキタやミナミは海の中だったようです。

 明石原人、西八木海岸で発見された人骨ですが、発見者の直良信夫が専門家でなかったこともあって、詳細な鑑定がなされないまま太平洋戦争で焼失して、レプリカが残っているだけです。いつの時代の人骨だったのかはわからないままだそうです。

 アカシゾウ、これも明石原人が発見された地点の少し東の海岸で発見された西八木海岸で発見された約120-180万年前に西日本を中心に広く生息していた絶滅したゾウの牙によって、発見地にちなんでアカシゾウと名付けられたそうです。

 縄文期から弥生期、そして古代の展示部分です。五色塚古墳関係もありました。

 古代の地図、陸路では古代の山陽道は、今の明石や舞子・垂水の町を避けて鉢伏山を北側に迂回して、ご畿内の須磨に至っていたようです。海路では魚住泊まの次は大輪田泊・敏馬を経た瀬戸内海航路があったようです。

 古代の明石は、瓦を含めて焼き物が結構盛んだったようです。

 今「明石焼」と言えば玉子焼(ふわっとしたたこ焼)ですが、焼き物の「明石焼き」というのが古代にはあったようで、中世頃まで続いていたのかもしれません。

 明石海峡近辺の漁場と、それぞれの魚の種類を表した地図で、明石鯛と明石タコが名産の明石ですが、鯛とタコ以外にも様々な海産物が獲れるようです。

 海の深さを立体的に表現した地図、海流が激しい海峡は、かなり海深があるのは海流の速さで海底がえぐり取られた結果なのかもしれません。

 2階から、吹き抜け部分の展示を見下ろすと、こんな感じです。

 文化博物館の南側は見晴らしの良い横断歩道があります。

 横断歩道から眺めた明石海峡大橋と、明石天文科学館、この構図で見るのは初めてです。

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