上を向いて歩こう ~ あれから30年
30年前の7月15日、避難所となっていた当時の本務校で、校舎の教室を避難所とされていた地域住民と方々と学校の職員とで、ちょっとした会がありました。阪神淡路大震災の1月17日から半年が経って、夏休み中に避難所が解消され、それぞれ仮設住宅に入居することになっていたように思います。避難生活から半年という意味もあったのかもしれません。
30年前の4月から新入生のクラス担任となったのですが、校舎の一部の教室が避難所となって地域住民の方々が生活をされていたので運動場に仮設のプレハブ教室が建って、1学期の間はプレハブ教室がホームルームでした。授業をしていると、サッカーのボールがプレハブ教室に当たり凄い音がしたり、決して良い教育環境ではありませんでしたが、本務校周辺には、まだ傾いたままのビルがあったり、壊れたままの家屋があった時期でした。
震災から半年が経った1995年7月15日に書き留めた文章です。
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「上を向いて歩こう」 1995年7月15日
今日、避難所となっていますわたしの職場で、ちょっとした会がありました。震災から半年、(震災直後何もしなかったに等しい)行政の避難所解消の方針によって、とりあえずひとりひとりの住民の方々が7月末にはそれぞれの場所に移る(戻るのでは決してない!!)ことになり、お別れ会を持ったのでした。300人(震災直後は千有余人)余りからはじまって、半年で30人、寂しい会でした。
2月、3月の一番つらかった頃には、お楽しみ会のようなものを週末に催し、笑い、喜びあいました。みんな辛かったから、みんな苦しかったから、みんな寒かったから、そして希望なんかなかったから、だから笑い、喜びました。心から笑い、喜びました。心の底の苦しみ、苦さを追い出すために、記憶にこびり付いて離れない光景や、耳から消えない叫び声や泣き声からひとときでも逃げたいから。みんな、それぞれに、なにかを求めていました。
水が貴重だった、食料が貴重だった、暖がほしかった、温かいものを食べたいと思った、余震の恐怖におびえてた、ご遺体のために線香がほしかった、そして心のやすらぎがほしかった。
いろんなことが思い出されました。苦しかったから、辛かったから笑いました、冗談を飛ばしました。でも今は落ちつき、避難所も解消されようとしています。ようやく先が見えた、過去におびえるのではなく明日のことに心砕けるようになったので、みんな今は安心して涙を流せます。泣いた後は笑えるから。
最後に「上を向いて歩こう」をみんなで歌いました。涙をこぼしました。安心して涙をこぼして泣けるようになりました。やったね!
おわりではなく はじまりです。
July15,1995
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垂水駅前のアーケード商店街の垂水センター街で、長年お菓子屋さんだった店が閉店して、その後に新しい店が昨日からオープンしていました。昨日は初日で行列が出来ていましたが、今日も入店には待ち時間があるようです。

垂水センター街には、4軒の青果店が競い合うように店を出しています。

垂水駅前には、イオンとコープこうべ、業務スーパに、八百鮮と三杉屋、そして高級路線の北野エースとスーパー形態の店舗も多く、激戦地帯です。